旧暦と新暦のずれ — 明治5年12月2日の翌日が明治6年1月1日になった話
日本の暦には、消えた28日間があります。明治5年12月2日の翌日は、明治5年12月3日ではなく明治6年1月1日でした。これは太陰太陽暦から太陽暦への切り替えで起きたことで、その日から今日まで続く新暦の始まりでもあります。なぜ2つの暦は放っておくとずれるのか、そして旧暦の日付が足し算では新暦に直せないのはなぜかを、日数で追ってみます。
暦の1年が11日足りない
旧暦と呼ばれている暦は、月の満ち欠けを1か月の単位にしています。新月から次の新月までは平均29.53059日なので、1か月は29日か30日です。これを12か月ぶん重ねると354.37日にしかなりません。一方で季節が一巡する1年は365.2422日です。差し引き10.9日が、毎年たまっていきます。
3年ためると32.6日で、ほぼ1か月ぶんです。そこで月を1つ余分に挟んで帳尻を合わせます。これが閏月で、挟まれた年は13か月になります。挟む頻度も計算で出せます。19年ぶんのずれは10.87512×19で206.6日、朔望月7回ぶんは29.53059×7で206.7日ですから、19年に7回の閏月でほぼぴったり合います。紀元前から知られていたこの周期を使って、旧暦は季節との縁を保っていました。
明治5年の12月は2日で終わった
太陽暦への切り替えを定めたのは、明治5年11月9日の太政官布告第337号です。明治5年12月3日を明治6年1月1日とする、と書かれていました。布告の日から数えて、旧暦の日付として残されたのは23日間だけです。改暦は日付の付け替えだけでなく、日の出と日の入りで昼夜を分けていた不定時法を、1日を24等分する定時法へ改めるものでもありました。
なぜこれほど急いだのかについては、大隈重信が後年に語った説明が知られています。明治6年は閏月の入る13か月の年にあたっており、月給制へ移ったばかりの官吏に13回の給与を払う必要がありました。改暦すれば13回目が消え、さらに2日で終わる明治5年12月分も払わずに済みます。財政の都合が理由の一つだったという回顧です。切り替えの日付が新暦の元日にそろえられているのは、年の変わり目で継ぎ目を隠せるからでもありました。
足し算では戻せない
旧暦の日付を新暦に直すとき、一定の日数を足せば済むように思えます。実際にはそうなりません。ずれ幅が年ごとに違うからです。閏月の入らない年は毎年11日ずつ手前へずれ、閏月が入った年は1か月ぶん押し戻されます。ずれは最小で0日近く、最大で1か月近くまで開きます。同じ「12月2日」でも、年が違えば新暦での位置が数週間動きます。
この道具棚の今日の暦が旧暦の日付を表に出しているのも、換算が計算式1本で終わらないためです。日付から日付への対応は、その年の新月がいつだったかを積み上げて初めて決まります。同じ理由で、旧暦の月日から求める六曜も年をまたいで規則的には並びません。この仕組みを六曜はどう決まるのかに書きました。
100年後の閏日は26年後に決まった
改暦の布告には、4年に1度の閏日を置くことしか書かれていませんでした。400年に3回だけ閏日を抜くというグレゴリオ暦の規則が日本の法令に現れるのは、明治31年の勅令第90号です。ここで、100で割り切れて400で割り切れない年は平年にすると定まりました。2100年が閏年にならないことは、この勅令で決まっています。改暦から26年のあいだ、日本の暦には100年先で1日ずれる穴が空いたままでした。
まとめ
- 旧暦は1年が354日ほどで、太陽の1年より10.9日短くなります。閏月を19年に7回挟んで合わせていました。
- 明治5年12月2日の翌日が明治6年1月1日です。布告から23日で切り替わり、明治5年の12月は2日で終わりました。
- 旧暦と新暦のずれ幅は年ごとに違うため、一定の日数を足す方法では換算できません。
- グレゴリオ暦の100年と400年の規則が日本の法令に入ったのは、改暦から26年後の明治31年です。